週末、何もすることがないときには、どうやら映画を観に行くのがいいらしいと最近分かってきた。思い起こせば、底知れぬ倦怠感がただようとき、音楽と映画が僕の救いだった。学生時代には音楽、卒業直後の会社員生活では映画。
就職を前提に学生時代を謳歌できた人たちが決して味わうことのない、本物の虚無に襲われていた二十歳前後のころ、歌うことだけが明日を約束してくれた。ボーイソプラノだった子供のころ、周囲の大人に歌のうまさをほめられた思い出にひたることで、ようやく明日が来るという、今となっては当たり前のことを自分に納得させることができたのだ。
就職して間もなく、会社員として何ひとつ役立つ能力をもたない自分に絶望していたころ、一年間に映画を数百本観ることでしか、現実を忘れることができなかった。ただフランスの現代思想とフランス映画のことだけを考えて、東京での大学生活を夢見ていた高校生のころを思い出すことで、もしかするとあの頃のような希望に満ちた生活が、この現実以外のどこかにあるかもしれないと思うことができた。
年齢を重ねるにつれて、悲しいことに、少しずつ自分がどこまで行けそうかという地平線までの距離が見えてくる。何にでもなることができた時代は当の昔に過ぎ去って、もはや何者かでしかないということがはっきりしてくると、土曜日と日曜日は、場合によっては深い倦怠だけが支配する時間になる。そんなとき、映画と音楽は最強の組み合わせかもしれない。
矢口史靖(やぐちしのぶ)監督『スウィングガールズ』(2004年)を観た。朝になってこの映画を観に行こうと思い立ち、都心の映画館に行けばきっと満員だろうと考えたので、JR海浜幕張駅前にあるシネマコンプレックスまで出かけることにした。
昼間の上映回に5分遅れで入って、涙で鼻をつまらせながら劇場を出た。一つの劇場で違う映画を交互に上映するプログラムになっていて、そのまま二回目を観ることができなかった。自宅から電車で数駅のところにある映画館で、今週末からロードショーをしていたのをふと思い出し、電車を乗り継いでぎりぎり予告編の途中で劇場に入ることができた。違う劇場で、同じ日に二回、同じ映画を観たのは初めてだと思う。
矢口史靖監督の作品は、彼のデビュー作『裸足のピクニック』(1993年)をロードショーで観て以来だ。『ウォーターボーイズ』(2001年)は相当話題になり、ヒットもしたようだが、ついに観に行かなかった。なのでデビュー作と最新作の二作だけで矢口監督の作品について語るしかない。ひとことで言うと、脚本の作り方はデビュー作とまったく変わっていない。しかし格段に洗練されている。
矢口監督の作風を知らずに『スウィングガールズ』を観た人は、何なんだこのご都合主義的なストーリーは!と興ざめするかもしれない(初めからマンガだと思って素直に楽しめるなら問題ないのだが)。起こりっこない事件が、都合よく次々と起こる。いつの間にそんなに楽器が上手くなったんだと、首をかしげたくなるほど速すぎる展開がある。
しかしご都合主義的なストーリーそのものが、計算しつくされたスラップ・スティック的コメディーなのであり、速すぎる展開は、映像のシーケンスによって時間の経過を目に見えるものにする、大胆な省略法なのだ。強引なストーリーと省略法の技術が、雄弁に「映画以外にこんなことが表現できる表現手段はない!」と語っている。
だからこそこの映画は、クライマックスに向かって一直線にかけあがっていくことができている。『裸足のピクニック』がご都合主義的な展開で、主人公が一直線に不幸へ転落していく脚本であったのに対して、『スウィングガールズ』はご都合主義的な展開で、主人公たちは一直線にスポットライトの舞台へ登りつめていく。そういう意味で、矢口監督の脚本の作り方はデビュー作とまったく変わらず、映画でしかできない臆面もなさを臆面もなく映像化している。
おそらくこの臆面もなさこそが、矢口監督作品のこれからの偉大なる定番になっていくのではないだろうか。
ところで、『スウィングガールズ』のようないわゆる青春映画について、もう一つ書いておかなければならないのは、なぜこんなハッピーエンドの映画を観て、それでも泣いてしまうのかということだ。
何かをやり遂げた達成感に感情移入するだけで、感動を誘うのでもないコミカルな場面でさえ涙が落ちてしまうとは考えにくい。苦しい努力の過程が偶然のいたずらで報われる劇的な展開だけで、胸苦しくなるほど切なくなるとは思われない。
いわばもっと「哲学的」なことに触れるのでなければ、人は青春映画にこれほど感動することはないだろう。「哲学的」なテーマとしてこの映画について真っ先に思いつくのは、何のために生きるのかとか、生きがいといったことかもしれない。たしかに女子高生たちはビッグバンド・ジャズに、ようやく自分たちのやりたいことを見出したように見える。パソコンを途中で放り出してしまった主人公も、サキソフォンは舞台に上がれるほどまでにやり遂げている。
ただ、生きがいを見出しているのは、もともと生きがいなどなくても、ただ毎日生活することが単純に楽しいといった風な設定の、田舎の女子高生たちで、都会に生活している比較的孤独な人々とは随分違っている。彼女たちがスウィングすることに新しい意味を見出したとしても、それがこれほど大きな感動につながることはないはずだ。
だとすればまだ他に「哲学的」なテーマが潜んでいるはずである。そこで僕が思い当たったのは、そのテーマは映画を観ている僕らの側にあるのではないかということだ。この青春映画を観ることで、僕と同じ世代の観客たちが抱くのは、スクリーンの向こう側であっけらかんとした日々を送っている高校生たちと、観客席に座っている僕ら自身との、歴然とした差異なのだ。
僕らがスクリーンの向こうに見ているのは、二度と取り返すことのできない僕ら自身の高校時代である。もっと正確に言えば、実際には自分の高校時代はこれほどまでに明るく輝いてはいなかったが、これくらいあっけらかんとしていれば、自分にはもっと違う「今」があったかもしれないと思わせるような高校時代がスクリーンの向こうにあるのだ。
しかもその、もっと違っていたかもしれない「今」というのは、もっとあっけらかんとしていたかもしれない高校時代と同じく、もう決して手に入らないものである。このように、僕らは『スウィングガールズ』を観ることで、実は二重の喪失を味わっている可能性がある。一つは、実際にはそうでなかった高校時代、もう一つは、実際にそうではない現在だ。
そしてこの映画を観ることで、僕らはその失われた過去と、失われた現在の両方を体験することができる。両者を喪失すると同時に、体験しもするのだ。過去と現在を同時に失っていることに気づかされたときの深い悲しみと、失ってしまった過去と現在を同時にこの映画を通じて追体験できる素晴らしい喜びとで、僕らは悲しい涙と幸福な涙を同時に流しているのだ。