養老孟司『バカの壁』を読んだ。立花隆しかり、世に知識人と呼ばれる人のベストセラーにまともな本はないと考えるのが、養老孟司も本書の中でその重要性を強調する「常識」だが、『バカの壁』もこの「常識」に当てはまる迷著である。このページの賢明な読者の皆さんは読む必要がまったくないので、僕の拙い感想文だけで、嫌でも満足して頂きたい。
本書は養老孟司がしゃべったことを新潮社の編集者が聞き取って原稿に起こし、養老氏がそれに手を加えて著作にしたもののようだ。聡明であるはずの養老氏が本書で支離滅裂な議論を展開しているのは、おそらく養老氏自身の執筆によるものではないからだと信じたい。第一章から順を追ってその支離滅裂さ加減を確認していく。
「『バカの壁』とは何か」と題された第一章では、安易に「わかっている」と思い込む態度や、言葉によるコミュニケーションの万能性、唯一の客観的事実の存在、科学的推論の妄信などが否定されている。養老氏は第一章からいきなり、彼がさまざまな本を書いているということ自体の根拠を自己否定することを書いている。「もちろん、私は言葉による説明、コミュニケーションを否定するわけではない。しかし、それだけでは伝えられないこと、理解されないことがたくさんある、というのが(安易に「先生、説明して下さい」と言ってくるような学生には)分かっていない」(p.16、括弧内は僕の補足)
そんな学生に対して養老氏は「簡単に説明しろって言うけれども、じゃあ、お前、例えば陣痛の痛みを口で説明することが出来るのか」と言ってみたりするらしい。自分が子供を産んだことがないにもかかわらず、陣痛を引き合いに出すとは笑止千万だ。体験しなければ本当には「わからない」ことがある、という主旨の発言だろうが、体験した結果、本当に「わかった」のかどうかを、僕らは言葉以外の手段でどうやって確認できるというのだろうか。
ある女性が実際に子供を産んで陣痛を体験したとして、すでに子供を産んだことのある別の女性に、陣痛の痛みをほんとうに「わかった」ということを伝えるとしよう。そのとき言葉以外のどんな手段が使えるだろうか。養老氏の主張はおそらく、実際に体験しているという事実がありさえすれば、言葉を使わずともその女性が陣痛の痛みが「わかった」ということが「わかる」というものに違いない。奇妙なほど事実そのものの実在に依存した論理である。この点は後ほど問題になるので、ちょっと覚えておいてほしい。
体験したという事実がありさえすれば、わざわざ言葉でその体験を表現するまでもなく、すでに「わかった」ことになる。このような論理は本書の後半にも「赤線」の例で登場する。ところで、こんなところに「赤線」の例をあげ、ついでにノスタルジーに浸ってしまう点に、養老氏の資質がはっきり現れているのだが。
「昔の学生はもう少し下世話だった。つまり、現物から情報を起こしてくるのは当たり前だと思っていた。/私が教養学部の学生のときに赤線が廃止になった。廃止になったその日に、今日で赤線が終わってしまう、というのが教室の話題になっていた。要するに、どういうものであるかというのを自分で体験してみようというのがあった。」(p.168-169)
この部分の引用だけで、『バカの壁』が読むに値しない書物だと判断できた人のその判断は、おそらく正しい。身体的、物理的な体験の実在をよりどころにして、その体験の重要さを強調するのは結構だが、それさえあれば十分であり、それを他人にいくら言葉で「説明」したところで、相手は本当に「わかった」ことにはならない。そう、養老氏は断じている。
しかし、こうした養老氏の主張を認めるとすれば、養老氏はいったいなぜ、自分の考えを『バカの壁』という言葉にして、読者に「わかった」ような気にさせるのか。養老氏は自分が使っているまさにその論理で、『バカの壁』の読者に「わかった気になるな!」と言うことができる。こんな本を読んで「わかった」気になるな、それが「バカ」ということだ、と読者に助言することが明らかにできるはずだ。なのに、養老氏はあえてそうしていない。
養老氏が複数の著作を出版し、著作を通じて読者に語りかけることに何らかの意味を見出しているなら、「物事は言葉で説明してわかることばかりではない」(p.16)などと書くことは、物書きとしての誠実さを完全に欠いていると言わざるを得ない。本来なら次のように書くべきではないのか。「物事は言葉で説明してわかることばかりではない。それでもわれわれは言葉を使って説明するしかない。だからこそ、話すということ、書くということを軽視していはいけない」。
次にもう一つの論点を取り上げてみたい。p.22に、唯一の客観的事実があるという考え方を否定する文脈の中で、鈴木宗男の話が出てくる。少し引用してみよう。「だから政治家の汚職問題、たとえば鈴木宗男氏の疑惑が生じれば、『とにかくあれは悪いヤツだ。以上。終わり』で結論付け、断罪して報道する。そこには、明らかに一種の思考停止が起こっているのですが、本人たちにはその自覚がないわけです」。ここで「本人たち」と呼ばれているのは、新聞記者やマスコミ関係者と思われる。養老氏は彼らに対してここで悪態をついているわけだ。
ところが同じ鈴木宗男氏の話が、巻末近くにも出てくる。この箇所も引用してみる。「欲というのは、現代社会ではあまり真剣に議論されていない。欲を欲だと思っていない人が非常に多い。欲を正義だと思っている。/要するに、人間の欲を善だというふうにしてしまうと、行き着く先は、鈴木宗男氏とか、いわゆる金権政治家みたいになってしまう。」(p.183)ここで鈴木宗男氏は「悪」だとされている。少なくとも鈴木氏を善悪という倫理的な文脈で引き合いに出している。
最初の引用部分で養老氏は、鈴木宗男を悪だと断じるのは、唯一の客観的事実があると思い込んでいるマスコミの思考停止だ、と一方で断罪している。ところが後者の引用部分では、養老氏自身、鈴木宗男を悪だと断じている。養老氏にも「欲を正義だと思ってはいけない。よくは本当は悪なんだ。昔の人はそれをわかった上で欲ということを考えていた」といった、一定の倫理観があるのだ。そして、それにもとづいて自分の目の前の事実を組み立て、自分の組み立てた事実にもとづいて鈴木宗男の欲を悪だと断じている。これが養老氏の意図的な思考停止でなくて何だろうか。
養老氏は反論するかもしれない。俺の思考停止は意図的だが、マスコミの思考停止は、それとわからずにわかったつもりになっているのだ、と。しかしそのように、マスコミの意図をわかったつもりになっている養老氏は、自分が「わかったつもりなのに実はわかっていない」という「バカ」になってしまっていることに、果たして気づいているのだろうか。
しかも、マスコミが鈴木宗男を悪だと断じるのは、何も彼らの思っている事実こそが、唯一の客観的事実だと考えているからではない。客観的であろうとなかろうと、彼らはそうした「事実」が、自身の倫理観やものの見方で構成した一つの「事実」であるということを自覚している。当然そこには特定の視点をとることによる、さけられない限界がある。しかしその限界の中で、あえて善悪の判断をして、それを言葉にしているのだ。自らの判断の限界を知り、また、言葉で伝えられることの限界を知りながらも、判断の有限性、言葉の有限性に自分の思考を賭けること、そこにしか人間が何かを表現するということの可能性はないはずだ。
少なくとも養老氏のように、一方でマスコミが事実を捏造しているかのように批判しながら、他方で自分の「捏造」した事実を平然と開陳するような人物よりは、まだマスコミの方が信用できる。
しかも先の陣痛の例示に見られるように、養老氏は「わかる」ということの確かさが、何かを体験したという事実に依存していると書いている。陣痛の痛みがわかるのは、陣痛を体験した、あるいは陣痛を間近に見たという事実に依拠しており、単に言葉で説明された陣痛では、本当に「わかった」ことにならない、という論理だ。ところがその同じ人物が、今度は客観的事実の存在を否定している。
だとすれば、陣痛を体験したという事実、陣痛を間近に見たという事実の実在についても、否定はしないまでも、少なくとも疑うことはできる。この妊婦は相当痛がっているようだが、本当はそれほど痛くないのではないか。この妊婦は鈴木宗男を悪だと断じたマスコミのように、「とにかく陣痛は痛いものだ」という地点で「思考停止」してしまっているのではないか。養老氏は、そのように疑うことができるはずだ。
体験の事実の真実性も信用できないなら、「わかる」ことをそこに依拠させることもできない。養老氏の論理はぐるりとまわって自分自身を否定し、読者である僕は、「このおじさんは一体、何が言いたいのだろうか」とつぶやくより他ない。養老氏は、正しくは次のように書くべきだった。「人間は言葉の限界を知りながらも、言葉でわかってもらうより他ない。唯一の客観的事実がないと知りながらも、そして、自分の認識能力の限界を知りながらも、いったんは事実を構成し、それにもとづいて考え、行動せざるを得ない」。
なぜ養老氏がこのように書くことができず、激しく自己矛盾した議論を延々と展開せざるを得ないのか。それは氏が、他者との間の意思疎通がどのように成り立つか、孤立した主観と主観の間の関係がどうしたら成り立つのかということを、まったく無視しているからだ。間主観性の問題、養老氏にわかりやすいように言い換えれば、「脳と脳の間」の問題に、養老氏はまったく気を配っていない。
本書にも脳のしくみについての、素人向きの解説はたくさんでてくるが、一つひとつの脳の内部でどのようなことが起こっているかの説明こそ出てくるものの、では脳と脳がどのように相互作用をするのか、人間と人間がどのように意思疎通することで(そして意思疎通に失敗することで)、社会というものが動いていくのか、そうした間主観性の問題がすっぽり抜け落ちている。
人間が言葉の限界を知りながら言葉にたよらざるを得ず、認識の限界を知りながら、事実を措定せざるを得ないのは、他者とコミュニケーションせずに生きていくことができないからだ。逆に他者とコミュニケーションすることでしか、認識の妥当性や事実の客観性を検証できない。言葉の不完全性は体験の事実性によって救われるのではなく、それでもなお他者に対して語り続けることによってしか救われない。それを体験の事実性によって救おうとするから、今度は自分で事実性を否定せざるをえないはめに陥るのだ。
今日のところはここまでにして、別の論点はまた後日。いずれにせよこんな書物が百万部を超えるベストセラーになっているところを見ると、『バカの壁』は自分で自分を実現する予言になってしまっているようだ。『バカの壁』を読んでわかったつもりになる人が増えれば増えるほど、「バカの壁」の存在がますます確かになり、増殖しさえする、という具合に。