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一神教的/汎神論的

Different Frameworks of Belief

2004/03/19

At this point Westerners will surely come across a question. How can a pantheistic organization be aligned to a single objective without any central principle or framework? How can each member of a pantheistic organization be aligned to the objective of the whole organization without the single principle or framework? As the members of a pantheistic organization don't accept a single principle or framework, the members of pantheistic organization will talk like this: "I understand that you have your own principles. But we have our own principles. We don't have to follow your principles and you don't have to follow our principles". If this is the case, nobody can be aligned in a pantheistic organization… Westerners will surely ask these questions about pantheistic organizations. But questioning in such a manner is already contaminated by the monotheistic way of thinking. When Westerners talk about "principles" or "frameworks", they assume that one principle (framework) is always incompatible with another principle (framework). In the monotheistic framework there should be a clear distinction between one principle and another. So if one person has a different principle from another person, Westerners believe that these two persons can't be aligned because the principle is the very instrument for realizing every kind of alignment. Every monotheistic organization relies upon the exclusive principle in order to align its members and to keep itself as an organization. We can consider a monotheistic framework as a principle-based system.

人が自分の信念の枠組みから自由になるのはとってもむずかしいようだ。西洋人は一神教的な枠組みにいまだに縛られているのに対して、日本人もいまだに汎神論的な枠組みに縛られている。こういう宗教じみた言葉づかいが誤解をうみやすいことはわかっているが、理由がちゃんとある。ここで一神教的な信念の枠組みと呼んでいるのは、個々の事実をすべてコントロールしているような唯一の原理(またはいくつかの原理)があるにちがいないと信じる傾向のことだ。ここで汎神論的な信念の枠組みと呼んでいるのは、一つの原理と一つの事実が一対一で対応しているにちがいないと信じる傾向のことで、したがって、われわれ日本人はじっさいには無数の原理をもっていることになり、それはもはや「原理」とは呼べないということだ。ここでは「信念」という言葉をつかっているが、一神教的か汎神論的かという枠組みは、単に考え方のちがいにすぎないからだ。われわれにどちらが良いかという判断はできない。それぞれの枠組みはそれ自身の信念にもとづいている。どちらの枠組みも真理にもとづいているわけではない。一神教的な枠組みこそ真理であると主張することもできないし、汎神論的な枠組みこそ真理であると主張することもできない。

もしかすると読者のみなさんは、一神教的な枠組みは「演繹的」な考え方につながり、汎神論的な考え方は「帰納的」な考え方につながるとお考えかもしれない。しかしじっさいには、一神教的な枠組みから、演繹的な考え方と帰納的な考え方の両方が生まれたのだ。演繹的な考え方と帰納的な考え方のどちらをとっても、結局のところ唯一の原理につながっていく。演繹的な考え方と帰納的な考え方では、単に、唯一の原理へのアプローチの方向が違うだけだ。個々の事実から唯一の原理へのぼっていく場合、それを帰納的な考え方と呼び、唯一の原理から個々の事実へくだっていく場合に、それを演繹的な考え方と呼ぶ。どちらの場合でもつねに唯一の原理、または、少数の原理を手にすることになる。西洋人は、日本人の考え方は帰納的だと間違って理解しがちだが、典型的な日本人の考え方は帰納的なのではなく、汎神論的なのだ。演繹的な考え方も帰納的な考え方も、西洋人の一神教的な考え方に属するものである。なぜなら、事実から原理へという道をたどろうが、原理から事実へという道をたどろうが、個々の事実の背後には唯一の原理があると仮定していることに変わりはないからだ。

つまり、典型的な日本人の考え方は、演繹的でも帰納的でもない。それは「汎神論的」なのだ。この言葉はまだいかがわしく聞こえるので、もうすこし説明してみたい。日本人は、違う事実に直面したとき、違う原理があると仮定しがちだ。「原理」ということばと「神さま」という言葉を比較するとわかりやすい。一神教的な枠組み、つまり、西洋人の考え方では、一つのことがらについてみんなばらばらの意見をもつかもしれないが、すくなくとも同じ一つのことがらを見ているという前提がある。「神さま」の存在を否定する人もいれば、「神さま」にわが身をささげる人もいる。しかし彼らはやっぱり同じ一つの「神さま」のことを話していることには違いない。ところが「汎神論的」な枠組み、つまり日本人的な考え方では、みんながそれぞれいろんな「神さま」のことを話している。同一人物が、状況が違えば、違う「神さま」のことを話すことだってある。日本人は、すべてのものを中心的にコントロールできるようなものはないと仮定しているのだ。日本人は一つひとつのものが、それ自身の小さな「神さま」(=原理)をその内部にもっていると考える傾向がある。これはキリスト教が広まる前の、西洋の古代宗教とそう変わりない。ただ、たとえば、ギリシア神話などを考えてみると、そこにもやはり限られた数の神さましかいないことがわかる。それに対して、日本の古代宗教は、葉っぱの一枚一枚、石の一つひとつがそれ自身の「神さま」をその内部にもっていると考えていた。

いやいや、西洋人だって唯一の原理と、複数の原理を同時にもつこともあると反論されるかもしれない。しかしふつう西洋人は、複数の原理をもつことの複雑さに耐えられない。複数の原理があるとき、西洋人はそれらを一つの体系化された図にまとめようとする。すると今度はこの図が新しい原理になり、複数の原理の複雑さに置き換わる。西洋人は複数の原理が存在する場合、それらをとりまとめるための単一の枠組みを必要とするのだ。ここから「枠組み」というものが西洋人にとっていかに大切かがわかる。とくにビジネスの世界のような実践的な状況ではその大切さはきわだつ。(このエッセーでは西洋人にも分かりやすいように、意図的に「信念の枠組み」という言葉を使っている。つまり、いまわれわれはまったく異なる二つの信念の体系について、一つの言葉で語っているわけだ。これら二つの異なる原理を一つの図にまとめるために、「枠組み」という言葉を選んだわけである。つまり、われわれはいま、まるで西洋人であるかのように振舞っているのだ)。

西洋人がふつう、たくさんの原理の複雑性に耐えられないのに対して、日本人は場合によって、別々の原理を使い分けることの複雑さを受け入れてしまう。日本人はすべてのものが、それ自身の原理(小さな「神さま」)にしたがって働いていると考える傾向がある。そして別々の原理にしたがっているさまざまなものごとをまとめると、一つひとつの大事な特性が失われてしまうと考えがちだ。もし一つひとつのものごとの特性を失ってしまうと、そのようなとりまとめ操作から得られた図は、もはやわれわれがじっさいに直面している現実を反映したものでなくなってしまう。そのような図はまちがった方向にさえわれわれを導きかねない。

ここで西洋人の「一神教的」な枠組みと、日本人の「汎神論的」な枠組みを、どう評価すればいいかを議論したい。これら二つのことなる枠組みを、いかに効率的に変化に対処できるかという観点から評価することができるだろう。一神教的な枠組みでは、すべてのものを支配する単一の原理か、いくつかのことなる原理を含みつつすべてのものごとを支配する単一の枠組みがある。どちらにしてもすべてのものを支配する単一の原理があることに違いない。環境が大きく変わったとき、当然この単一の原理も変わる必要がある。すべてのものの頂点にある単一の原理が変わった後、それにつづく変化がぱたぱたとかんたんに起こることが期待できるなら、体系全体も環境の変化に対してすばやく適応できるだろう。たとえば一つの組織を例にとれば、組織を構成するすべての人の考え方がドミノ式にぱたぱたとかんたんに変わっていくことを期待できる場合には、組織全体も、リーダの方向付けが変わりさえすれば、効率的に方向転換できるだろう。しかし、組織のメンバーの考え方がそんなにぱたぱたと素早く変わることが期待できないとすれば、ものごとの変化に対して一神教的な対応の結果はひどいものに終わるだろう。すべてのメンバーが新しい方向性にしたがわない限り、組織全体も新しい環境に適応できなくなってしまうからだ。一神教的な枠組みをもつ組織は、一種の「オール・オア・ナッシング」のモデルに近い。

他方、汎神論的な枠組みをもつ組織の場合、組織は環境の変化に対して、ひとつの部分から別の部分へと、だんだんと適応していく。というより汎神論的な組織はそのように変わるしか方法がないのだ。なぜなら、組織の中の変化を一発で引き起こせるような中心となる原理が存在しないからである。部分的に、かつ、だんだんと変化することによって、汎神論的な組織は、一神教的な組織に比べると、変化についての情報(例:変化のインパクト、リスク、メリットなど)を組織のほかの部分によりフィードバックしやすい。小さな一部分で起こった変化は、試行やパイロットの意味をもつからだ。この小さな試行錯誤を繰り返しながら、変化はだんだんと組織全体に広がっていく。そして変化が組織全体に広がったとき、組織の全員がすでに変化についてすべてを学んでいる状態になっている。もしメンバーの考え方がぱたぱたと素早く変わることを期待できるなら、変化に対して汎神論的な対応をとる理由はない。しかし組織そのものが汎神論的な枠組みにしたがって機能している場合は、逆に、原理を定義しなおして、それを広めるという一神教的なアプローチはきわめて非効果的だろう。ルールはとても単純だ。一神教的な組織は、原理や枠組みを定義しなおすことで変化に対応すべきであるし、汎神論的な組織は、小さな試行錯誤をだんだんと広めていくことで変化に対応すべきである。そういうことだ。

ここで西洋人はきっとひとつの疑問につきあたるだろう。汎神論的な組織は、中心になる原理や枠組みがないのに、どうやって単一の目的にむかって足並みをそろえることができるのか。汎神論的な組織のメンバーは、単一の原理や枠組みなしに、どうやって組織全体の目的にじぶんを合わせることができるのか。汎神論的な組織のメンバーは単一の原理や枠組みを受け入れないので、こう言うだろう。「あなたたちにはあなたたちなりの原理があることはわかった。しかし、われわれにもわれわれの原理がある。われわれはあなたたちの原理にしたがう必要もないし、あなたたちもわれわれの原理にしたがう必要もない」。もしこれが本当なら、汎神論的な組織では、だれも足並みをそろえられないことになる…。西洋人はこんな質問をたずねるにちがいない。しかしこのような質問をすることがすでに一神教的な考え方に「汚染」されているのだ。西洋人が「原理」や「枠組み」を語るとき、一つの原理(枠組み)はつねに他の原理(枠組み)と相容れないものであると仮定する。一神教的な枠組みでは、ある原理と別の原理の間にははっきりした区別がなければならない。だからある人が別の人と違った原理をもっている場合、西洋人はこれら二人の人々は足並みをそろえられないと考える。西洋人は、原理こそがあらゆる種類の「足並みをそろえる」ということを実現するための道具だと信じているからだ。すべての一神教的な組織はメンバーの足並みをそろえ、一つの組織として維持するために、排他的な原理にたよっている。一神教的な枠組みを原理にもとづいた体系だと考えることができるだろう。

他方、日本人は原理がなくてもおたがいに足並みをそろえることができる。メンバーどうしのあらゆる合意はつねにその場その場で行なわれるためだ。足並みをそろえることに失敗した場合のリスクを最小限にするために、日本人は起こりうるさまざまなケースに対応ような単一の原理にもとづいた包括的な合意といったものを避ける傾向がある。日本人は、個々のその場その場の合意をする以前に、すでにその合意を可能にする共通の基盤を共有している。しかしながら、すべての合意を可能にするような「共通の基盤」は曰く言い難い。むしろ感情や暗黙の信頼と関係がある。何か良いことや悪いことが起こったときに、同じ感情を共有できるかということに関係している。たとえば、会社が倒産したときに、一人は働きつづけることができて、もう一人は失業するとしたら、この二人は「共通の基盤」を共有しているとは言えない。「共通の基盤」とは同じ運命を共有すること、同じ出来事について同じ結果を共有することだと言える。同一の出来事について、違う影響をうける二人の人がいたとすれば、彼らは「共通の基盤」を共有できない。

西洋の一神教的組織を支配している単一の原理は、未来がどんなものになるかを前もって定義する。西洋的な原理、たとえば企業におけるミッション、ビジョンのようなものは、われわれが将来どんなふうになる「べき」か、ものごとはどんなふうになっている「べき」か、将来どんなふうに行動す「べき」かを前もって定義する。西洋的な原理は、ちょうどキャッシュフローの割引率のように、未来を現在の地点までもってくる。それに対して、日本の汎神論的な組織の根底にある「共通の基盤」は、現在がどんなものかを確認する。日本の「共通の基盤」は現時点でわれわれが合意しているかどうか、現状はどうなっているか、いま何をおこなっているかを確認する。日本人は、未来を前もって定義することはできないと仮定している。日本人は明日の知恵は今日の愚かさによって制限されるべきでないと考えている。日本人は明日は今日より多くを知っていると考えている。だから今われわれがする必要があるのは、現状を確認することだけだということになる。

だから日本人はばら色の未来ばかりを語る人々を信用しないし、すべてを前もって定義しようとする人々を信用しない。日本人は未来というものを、現時点で想像できるよりも良い意味でも悪い意味でもはるかに大きなものだと考える傾向があるからだ。西洋人が単一の原理を尊重するのは、それが未来を示すからだ。ちょうど神さまがキリストを通じてわれわれの未来を示したように、そして、ヘーゲルが弁証法を通じて精神の未来を示したように。日本人は具体的な個々の事物を尊重する。なぜなら何物も未来を示しえないし、現在の基盤を共有している人々しか信頼できないからだ。

TRUE Western Japanese
Single Principle
(Monotheistic)
Multiple Principle
(Pantheistic)
FALSE Western Japanese  
Deductive Inductive

Preference of complexity
Western Japanese
Intolerance toward
complexity
Intolerance toward
simplicity

Pattern of organizational change
Western Japanese
Single-point decision &
vertical cascading
Multiple-point trial &
horizontal proliferation

Source of organizational alignment
Western Japanese
Strong binding of
impersonal principle
Ad-hoc rules shared
among the people there

Understanding of the future
Western Japanese
Predefined
by today's principle
(God knows tomorrow.)
Unforeseeable result
of today
(Tomorrow knows better.)



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