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株主無視と顧客至上主義

株式会社の当たり前の存立基盤

2004/08/08

いつもなら企業経営に少しでも関係することは「サラリーマンを考える」というコーナーのエッセーとして書くところだが、今日は僕の生活の一部としての職場ととらえて「日常生活を考える」のコーナーに書いてみたい。テーマが「株主」であるにもかかわらずだ。

このページの読者はすでにお気づきのように、筆者は先日ふたたび転職して新しい会社に勤め始めている。転職するたびに気づかされるのは、転職先の社員が例外なく自虐的に自社の社風を語るということだ。「○×社の常識は世間の非常識」などはほとんど紋切り型で、僕にとっては聞き飽きた言い回しだ。株式会社という一つの制度の枠におさまっていながらも、それだけ会社は多様であるということで、その多様性は無数の株式会社がこの小さな日本の市場を棲み分けている以上、当然といえば当然すぎることなのかもしれない。

しかし今回勤め始めた会社は(「今回」などという言葉を使うとまるで「次回」があるかのように響くが、初めから辞めるつもりで入った会社など一つもない)、その中でもきわめて特殊であると言わざるを得ない。なぜならまさにその「株式会社」という最も根本的な自己規定の枠を自覚していないように見えるからだ。この会社は某自動車会社のような組織的な悪意からはもっとも離れた場所にある、屈託のない人たちばかりからなる組織なので、意図的に、悪意をもって、自分たちの組織が株式会社であることを無視しようとしているわけでは決してない。

むしろあまりの屈託のなさ、素朴さのゆえに、株式会社であるという事実が何を意味するのかを知らないのだと表現した方がぴったりする。ちょうど物心つかない子供が、自分がどのようにしてこの世に生まれてきたのか、そして最後にどこへ消えてゆくのか、そんなことを微塵も考えずにはしゃいでいる姿に似ている。そしてそんな子供を自由に遊ばせるがままにしている親にも大いに責任がある。

たとえばこのエッセーを書いている一週間ほど前に某レコード会社で「お家騒動」があった。その会社の看板歌手を育てた実力者が経営陣との不和のために独立企業すると発表したところ、当の看板歌手も彼が辞めるなら私もついていくと言い出し、同社の株価がストップ安になった。そのため逆に経営陣の方が交代を迫られる結果になったという一件だ。株価がストップ安になるという事実が、翌日にはもう経営陣の交代という結果を生み出してしまう。これこそ上場企業が市場を通じて株主から受ける厳しい審判の典型と言えるだろう。

僕が今回勤め始めたこの会社は現在100%子会社だが、同じ親会社の他の関連会社の例にもれず将来は上場を目指しているらしい。上場を目指すということは、上記のレコード会社のように株式市場を通じて株主から監視されるということなのだが、今のところ株主の視線を意識しているのは経営陣に近いほんのひと握りの人たちだけだ。株主に対する意識がこれほどまでに希薄なままでは、上場への道のりははるか遠い。

それはこの間まで僕が働いていた会社が、ここ最近連日東証一部で株価の最安値を更新するというかたちで、株主からの厳しい審判をうけていることと無関係ではない。このページの読者の皆さんも含めて、上場企業で働いた経験のある人たちなら当然のこととして体得している「株主」に対する「恐れ」の感覚が、今の会社では殆どの従業員に欠けているようなのだ。

たとえば3月決算の会社なら、5月末にかけて総務部門が株主総会の準備に神経をとがらせ、他の仕事そっちのけで株主との想定問答集の作成に取り組んでいることを小耳にはさんだり、社内で本1冊購入するにも面倒な申請手続きが必要なのは「総会屋」が不当な金額で売りつける定期購読誌などの購入を防止するためだと聞かされたり、日常業務のそこかしこに「株主」という会社の所有者が顔を出す。そんな環境で仕事をすることによって、上場企業で働く会社員は無意識のうちに「株主」の重要性を学んでいく。

しかし上場企業に勤務した経験のない人にとって、「株主」の重要性を学ぶことは難しい。たとえば商売人にとってお客様が大切だということは小学生でも知っている。それは商店街のパン屋さんや本屋さんなど、小学生にも馴染みのある個人事業主は、会社の所有者であると同時に経営者であり、会社の従業員でもあるので、「株主」という存在を独立したものとして意識する必要がないためだ。そんな個人事業主という経営体しか知らない小学生は、会社にとって大切なのはお客様だけであるという考え方に疑問を抱かないだろう。

会社にとって大切なのはお客様「だけ」だという考え方から導き出されるのは、「お客様のためになるなら会社は何でも実行すべきだ」という非常に素朴な理念だ。しかし、これほどまでに単純素朴な理念が当てはまるのは、個人事業主や、僕が以前働いていた大手ディベロッパーのようにオーナー(株式の所有者)がそのまま経営者であるような場合に限られる。

株式を上場している企業の場合、「お客様は神様です」的な顧客至上主義の理念はもはや通用しない。通用しないどころか、会社の存続という観点からすると危険でさえある。たとえば数年前、某スーパーマーケットで食肉産地の偽装工作が明るみに出たとき、顧客至上主義の考えにもとづいて該当する商品を購入した顧客全員に購入代金を返金したところ、本当に購入したのかどうかあやしい顧客までが返金を受けて世間の失笑と株主の怒りを買った。これは現場の顧客至上主義が暴走して会社に損害をもたらし、結果的に株主の利益に反することになったケースだ。

その後のこのスーパーマーケットのたどった道筋は、株主軽視、単純素朴な顧客至上主義の株式会社のたどる運命をよく示している。つまり、米国最大のスーパーマーケット・チェーンに買収されるという事態を招きよせてしまったのである。初めからこの企業が顧客利益と株主利益のバランスをとって経営を行っていれば、米国のドライな株主を招きよせるほど株価を落とすようなことにはならなかっただろう。

株主の視点が欠けている会社で、顧客至上主義が暴走しやすい理由は単純だ。「お客様のため」という考え方には誰も反対できないからである。本当は株式会社が株式会社として存在するのも、その会社の社員が被雇用者として「お客様のために」働くことができるのも、すべては株主の出資によってその会社がこの世に産み出されたからなのだ。そもそも会社という舞台がなければ、その上で「お客様のために」云々を議論することさえできないのだが、現場で日々顧客と向き合っている従業員は、自分の立っている舞台を作ったのは誰かを忘れがちだ。

100の会社が120になり、150になり、200となって成長していくのは、たしかに「お客様のお陰」だが、そもそもゼロだったものが100になったのは株主がいたからである。200の会社が顧客を軽視すれば、150になり、120になってしまうかもしれないが、株主の利益に反するようなことをすれば、一気にゼロにもどることもありうる。企業にとって顧客と株主のそれぞれが持つ意味とは、それほどまでに異なるのだ。

現場にいれば顧客とは毎日顔を合わせるので、現場の従業員が顧客の利益を意識せざるを得ないのは当然だし、それ自体はまったく正しい考え方なのだが、だからといって現場が株主を軽視してもよいということにはならない。たとえば多くの日本企業で、社長は社内向けにもっとも強く株主の利益を代表する立場の人だ。その社長が現場を視察しているときに、現場の責任者がどういう態度をとるかで、その企業の株主に対する基本的な態度が明らかになる。

もし現場の責任者が、現場でのさまざまな経営努力を社長にアピールしたとすれば、その会社は株主利益を重視するという当然の意識を持っていることになる。現場が抱える問題点を社長に訴えたとすれば、株主に顧客の利益を訴えていることになり、やや見当違いではあるが株主に対する期待と信頼だけは持っていることになる。もし現場の責任者が社長を無視して仕事を続けたとすれば、その会社は株主の利益を完全に無視していることになる。

顧客と違って、株主とは毎日顔を合わせるわけではないので、その視点を忘れないよう意識的な努力が必要になってくる。その努力を怠れば、特にサービス業の会社はいとも簡単に顧客至上主義に傾いてしまう。顧客至上主義に傾くと、現場の発言力が強大になり、ほどなく絶対化される。現場が絶対視されると、社内の論理はすべて現場の声にもとづいて組み立てられるようになる。

その結果、現場ごとに異なる無数の局所的なルールが生まれ、「お客様のため」という口実で固定化される。実際には今までやってきたことを変えたくないという単なる現場のわがまままでもが、「お客様のため」という口実で正当化される。先にも書いたように「お客様のため」という考え方そのものは間違っていないので、誰も現場の主張に反論できない。間違っているのは顧客の利益「だけ」考え、株主の利益を無視している点なのだ。

顧客至上主義の末期症状は、現場のモチベーション至上主義という形で現れる。すべての社員が現場従業員の士気を下げることを極端に恐れ、腫れ物にふれるように対応するようになる。現場の士気を落とすような発言は端的に「悪」として断罪され、会社全体が顧客にもっとも近い人々の士気をあげるための自己犠牲を強いられる。

そのような事態が進行すると、まず会社全体として見たときの業務効率が劇的に悪化する。現場ごとに異なる局所的な慣習をとりまとめるために、本社間接部門の業務負荷が増えつづける。増大した業務負荷に耐えるのは、現場を支える本部として当然の役割だということになる。現場のために本部が犠牲になるのは当然という思想が定着し、経営資源の効率的な活用ということを考える人間がいなくなってしまう。

以上はあくまで「もし顧客至上主義が反省されないとすれば」という仮定を出発点にした極端な描写だが、もしこのような顧客至上主義が本当に社内に蔓延してしまったら、その会社が利益の出ない体質になるのは当然だ。特にサービス業は、よほど意識的に株主の利益を考えるようにしなければ、「顧客第一」という全く正しい主張のもとに、利益を削ってまで顧客に奉仕しようとする傾向がある。某ハンバーガー店チェーンが顧客至上主義から安売りや過剰な設備投資(たとえば店舗内のテレビ放送)に走り、ついに米国の株主から介入を受けたこともその一例だろう。米国からの介入を受ける前のこの会社は経営者が同時にオーナーであったために、「株主」の視点を欠き、顧客至上主義に突っ走った。

会社として利益を出すのは、株式会社である以上はいわば「原点」であり、お客様のためを考えるのは安定的に利益が出せるようになってからの話だ。利益も出せていないのに、顧客利益を優先する現場の観点が優位に立つような会社に、株式会社としての未来はないし、まして上場の可能性などない。

上場企業の勤務経験者でなければ「株主」の視点という当たり前のことさえ身につかないのは、おそらく日本の学校が株式や株式会社という仕組みについてまったく教育してこなかったためだろう。魚屋さんが顔の見える「お客様」を大切にするのは小学生でも分かることだが、株式会社の「株主」という、抽象化された、顔の見えない利害関係者を大切にするという考え方は、誰かがしっかりと教育しなければ永久に身につかない。これは小学生に限ったことではない。「株主」を知らずに大人になってしまい、日々顧客の利益しか考えていない会社員にも同じことが言えないだろうか。



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