フジテレビのドラマ『白い巨塔』が、視聴率は同じ脚本家による『Good Luck!』ほどではないにしても、「社会派」ドラマとしてはそこそこ世間で話題になっていて、身近にも楽しみにしている人がいるものだから毎週目にするのだが、番組が始まるとイライラさせられながらも、ついつい最後まで観てしまうことになるせいでかえって、このドラマについての疑問が頭をもたげる。
以前から「愛と苦悩の日記」にも書いているように、今回リメイクされた『白い巨塔』は、日本のテレビドラマではじめてのアウシュビッツ・ロケを宣伝文句に視聴率を稼ごうとするなど、この種の「社会派」ドラマでは際立って偽善的である。医療の現場を舞台にしたテレビドラマは、最近では他局でもTBSの『ブラックジャックによろしく』など、いくつかあって、どれもそこそこの視聴率を誇っているようで、医療ミスが社会問題化している中で、あるべき医師の姿と命の尊さをあらためて問うのは、もしかすると意味のあることなのかもしれない。
ただ、たとえば偶然目にした『ブラックジャックによろしく』のとある放送回で、主人公の研修医が、研修医としての少ない収入を補うために、別の病院でアルバイトをするのだが、その病院は通常1点10円のポイント制になっている医療費が、交通事故の場合だけ自由に金額を設定できるという制度を「悪用」して、交通事故の急患しか受け入れない病院だと気づき、それでもアルバイト代を受けとる自分と、医者としての理想のギャップに苦しむという脚本になっていた。『白い巨塔』では、個人的な地位と名声を貪欲にもとめる一方で、患者の命をないがしろにする財前と、患者の命を最優先に考える里見の対立が描かれている。
僕がこの種のドラマを観ていていちばん気になるのは、善悪の対立が単純すぎないかということだ。極言すれば、医師という仕事を地位、名誉、金銭を得るための手段としか見ない考え方と、人間の命を救うための尊い仕事であるとする考え方との対立を、そのまま登場人物A氏とB氏というわかりやすい対立関係に置きなおしているだけなのだ。
そして今わざと「手段」や「尊い」という言葉を使ったように、この種のドラマの背景にある倫理観ははじめから固まったもので、誰も反論できないような仕組み、というよりも、誰にも反論を許さないような仕組みになっている。たとえば、財前と里見はどちらが善でどちらが悪だと問われれば、財前が悪者で、里見が正義の味方であり弱い立場の患者の味方だと答えることしかできない。『白い巨塔』がアウシュビッツ・ロケを行なったということにも、この仕組みが象徴的に現われている。というのは、ユダヤ人を大量虐殺した事実について、誰もがそれは悪だとしかいえないからだ。
誰もが当たり前だと考えている善悪の区別について、さらにぜったいに反論を許さないような演出をつけて視聴者の前に差し出すというこの種のドラマについて、僕はどうしても腹立たしさを感じてしまうのだ。こんなに善悪がはっきりしているドラマを観ていると僕はまるで子供にかえって『仮面ライダー』や『ウルトラマン』を観ているような気分になる。
正義の味方ウルトラマンは地球征服をたくらむ怪獣と戦い、3分が経過するぎりぎりまで苦戦しながらも、最後には見事怪獣を倒して地球の平和を守ることに成功する。患者の味方里見は、世界の医学界の征服をたくらむ財前と診断ミス裁判で戦い、一審は敗訴するという苦戦を強いられながらも、最後には財前が自らの病に倒れて、いわば「自爆」する。悪は滅び、正義は勝つ。ヒトラーは自害し、ドイツに平和が訪れる。
『白い巨塔』が人気を集めるのは、最終的には正義の味方、患者の味方が勝つという反論できない倫理観が背後にあって、じっさいにそれを画面で確認することで、ついに正義が勝ったぞ!というカタルシスを味わいたい人たちがたくさんいるからで、言ってみればそれだけのことでしかない。僕が『白い巨塔』を観ながら腹が立ってくるのは、このように一見反論を許さない倫理観に安住して、単純な勧善懲悪劇をあたかもそうでないかのように、もっともらしい「社会派」ドラマとして見せようとしているからだ。
ウルトラマンや仮面ライダーなら、誰が見ても単純な勧善懲悪劇であることがわかる。わかっているから観ている側もそれを割り引いて観ることができる。「ウルトラマンだからこんなに善悪がはっきりしているけれども、ほんとうはそうじゃなんだ」と考える余地が生まれる。しかし大学病院を舞台に人間の生命の尊厳をテーマとし、おまけにアウシュビッツまで持ち出して来たのでは、観ている側はこのドラマを単純な勧善懲悪劇と割り切ることができず、まるでこのドラマの倫理観が本物だと思ってしまうおそれがある。このドラマが生命の尊厳と職業倫理の問題を、真剣に提示しようとしているのだと勘違いしてしまう。じっさいにそこにあるのは、ウルトラマンのように単純な善悪の対立のドラマでしかないのに。
最近のウルトラマン・シリーズでは怪獣を倒すことに心を痛め、殺さずに宇宙へ帰すウルトラマンさえ登場しているというから、『白い巨塔』よりもまだましだ。視聴者に考える余地を残しているからだ。たとえば、いったい怪獣を倒さないウルトラマンに、ウルトラマンとしての存在価値があるんだろうか。宇宙に帰した怪獣は、また地球を襲ってくるんじゃないかしら。どうして怪獣を殺しちゃいけないの、などなど。『白い巨塔』はその点とても単純で、財前が里見のようになればそれでおしまい。めでたし、めでたしである。
もしも世の中の医師がみな里見のようになったら、それでほんとうにめでたし、めでたしということになるだろうか。ほんとうの問題はそこから始まるにもかかわらず、『白い巨塔』はそこから先を視聴者から完全に隠してしまっている。原作は読んだことがないので判断できないが、もしもほとんどの読者が財前のような医師を悪として糾弾することしか読みとれない社会派小説だったとすれば、同じことだろう。
医療の世界には詳しくないので正確なことは書けないが、財前のような人物がのし上がることの副産物として、多くの人の命を救う医療技術が生まれるとしたら、財前のような人物はある意味で必要といえるかもしれない。あるいは、目の前の患者の生命を救うよりも、新しい技術の研究に打ち込むべき人物はおそらくかならず存在する。また、医療ミスは許されないことだが、医師も一人の人間として判断力には限界があり、性格もさまざまであり、物理的に一日には二十四時間しかない。
しかも一人の医師が自分の知識と信念にもとづいて下した判断が誤りだったかどうかがわかるのは、その結果が出てからだ。たとえば1月最初の放送分では、財前が手術後の肺炎だと診断した病気がじっさいには別のもので、抗生物質を投与しても効果が出ずにその患者が死んでしまうという物語があった。もちろん原作があって、しかもそこから起こした脚本があるのだから誤診に決まっているのだが、この物語そのもののつじつまがあっているかどうかを考えてみると、これが誤診であると視聴者が自然に納得できる理由は、じつはドラマの中で財前が悪者として描かれていることしかない。まったく同じ設定を里見にあてはめたとすれば、それは誤診ではなく、「里見先生は一生懸命がんばったのに運悪くたまたま誤診してしまった」と視聴者は理解するだろう。
つまりこのドラマの演出の中ではまず財前という悪い医者が存在して、その後に誤診が存在している。しかも視聴者の期待どおり財前がやることなすこと、いかにも悪そうなことばかりである。しかしじっさいにはまず診断があって、その診断が誤診だったと判明するから、その医者が悪いということになる。また、誤診をしたからといって、かならずしもその医者が倫理的に「悪い」ということにはならない。現実には善意の医者の過失であるかもしれない。
こんなことをだらだら書くまでもなく、医療における倫理という問題を考えようとすると、まず何が善で何が悪かということを安易に判断することをやめて、それ以前の地点へといったんもどる必要がある。まず善悪の判断を中止して、そこから考えを始めなければならない。ところが『白い巨塔』のようなドラマは、悪が悪としての道を上りつめていき、そこから墜落するカタルシスを視聴者が味わう代わりに、適切に考える道のりを隠してしまう。しかもわざわざアウシュビッツのようなもっともらしい舞台装置を持ち出して、あたかも視聴者が倫理の問題を真剣に考えたかのような勘違いをさせることまでやっている。
『白い巨塔』というドラマはここまで徹底して用意周到に、視聴者に医療における倫理の問題を考えさせないように、考えさせないように工夫をこらしているのだ。『白い巨塔』のようなドラマを観ることで自分が何か貴重なものを知らず知らずのうちに奪われていないか、よく考えてみる必要があるのではないだろうか。