今日は米国人、ドイツ人、日本人の文化的差異について僕の仮説を書いてみたい。僕の仮説は彼らがそれぞれ文化的差異をどのように知覚し、反応するか、その違いに焦点を絞っている。僕の日常的な経験にもとづいた仮説なので体系的でも演繹的でもない。本来は集中的な調査によって検証する必要がある仮説にすぎないと理解してもらえればいいと思う。
まず最初に米国人について書こうと思う。なお僕が米国人と書くときは、アメリカ合衆国出身の白人だけを指している。米国人は文化的差異を無視する。米国はそれ自身非常に異なる文化を抱えているので、異なる文化的背景を持つ人々との個人的な関係においてその差異を埋めようとするのは、非効率的すぎるということを知っているのだ。したがって彼らは初めから文化的差異を主題化することを断念している。
そのように文化的差異を埋めることをしない代わりに、米国人は異なる文化的差異を持つ人でも誰もが容易に従うことができる普遍的な原理を要求する。そして彼らは、そのようにすべての国民にとって適切であるような普遍的な価値を人類は持つことができると信じている。米国人によって作られた普遍的な原理は現時点では、民主主義、自由主義、資本主義、自由市場などの言葉で呼ばれている。
米国人は他のすべての国民が彼らが言うところの「普遍的」な原理を容易に受け入れると素朴にも信じている。なぜなら彼らはその普遍的な原理の妥当性について議論の余地がないと信じているからだ。米国人は合衆国の中では異なる人種、宗教、文化を統治することに成功していると信じている。この信念から彼らは他の国々も同様に当地できると結論付けている。この誤った信念がもたらす結果については、パレスチナやイラクに見ることができる。米国人はあまりに自身を持ちすぎ、楽観的すぎるので、自分たちの指導力・統治能力について疑えないのだ。
他方、ドイツ人は米国人よりもゆっくりと文化的差異を認識する。彼らはその差異は永遠に埋めることができないと考える傾向がある。その差異は理解することができるだけだと考えているのだ。文化的差異を理解するために、彼らはすべてを説明するという戦略を採用する。ドイツ人は本質的に低文脈な人々だと言われる。低文脈というのは、世の中に自明なことは一つもなく、すべては完全に理解されるまで記述され、説明されるべきだ、という考え方のことだ。
ここにドイツ人の低文脈な性質についての冗談がある。ドイツ人は「時計を持ってますか(=何時ですか)」と聞かれたら、単に「はい」とだけ答える。米国人は「午前11時54分です」と答え、日本人は「お昼を食べにいきましょうか」と答える。ドイツ人は聞かれたことに対して正確に答える。米国人は質問者の意図を正確に理解している。日本人は質問者の言葉を深読みしすぎる。
低文脈の戦略を採用することによって、ドイツ人は異なる文化的背景を持つ人々とどんな点で異なっているのかが理解できるまで質問することをやめない。この戦略は確かに異文化環境において危険性を最小限にすることができ、米国人の傲慢さとは程遠い。しかしながら小さな問題がある。ドイツ人は何度も同じ質問をするので相手がこのような態度にいらいらすることもあるという点だ。
ドイツ人は文化的差異は決して一致させることができないと考えているので、質問し続けるという形でのこのような対話には終わりがない。しかしこのような態度は相互理解のためには大きな貢献をする。
最後に、日本人は文化的差異に対して米国人と同様の敏感さを持っている。日本人と米国人は文化的差異が存在すると前提しているので、その差異を素早く見つけ出すことができる。しかし日本人は異なる文化の両端を一致させることができる一点を見つけ出せると考える傾向にある。私たちはすべての国はお互いに仲良くするために妥協点を見出すべきだと考える傾向があるが、ドイツ人は定義上そのような妥協は不可能だと考え、米国人はすべての国が従うことのできる普遍的原理が存在するのだから、そのような妥協は全く必要ないと考える。
以上である。もう一度これは単なる仮説であることを繰り返しておきたい。しかし異なる文化的背景を持つ人と意思疎通をはかるとき、彼らが何を言っているかを理解するだけでなく、何故彼らがそんなことを言っているのかを考えることが重要だ。「何を」という疑問文にとどまらず、「何故」という疑問まで踏み込むことが必要だろう。